鎌倉の歴史と源頼朝

源頼朝肖像画

鎌倉幕府の詳細に関しては諸説あり、鎌倉時代の初めは当時の記録が不確かなものも多いため、その中の一つとして鎌倉の歴史を紹介するのじゃよ。

鎌倉の七つの切通し
鎌倉は南側を相模湾に面し、その他三方を山に囲まれており東・北・西方向のいずれからも切通しと呼ばれる狭い通路を通らねばならず、自然の要塞として源頼朝はこの地を幕府に選んだといわれているのじゃ。

平清盛肖像画
【鎌倉幕府の制定】
平安時代末期、平清盛を中心とした平氏政権に対し「もうやってられん。」と反抗する勢力があらわれ、当時伊豆に流罪になっていた源頼朝も打倒平氏の兵を起こしたのじゃ。一度は石橋山の戦いで敗れたものの、その後関東一円の平氏武士団の支持を獲得し、1180年に先祖ゆかりの地である鎌倉入りを果たすのじゃ。頼朝は、関東武士団を統率するための侍所を置き、関東武士団の代表=鎌倉殿と称されるようになったのじゃ。

大倉幕府跡の碑
同じ時期に鎌倉の大倉郷に頼朝の住まいとして「大倉御所」が置かれ、同時に弟の源範頼・源義経を派遣して平氏を滅ぼせという命令を出し、1185年に壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡し、頼朝は全国統一を果たしたのじゃ。
鎌倉幕府がいつできたのかは、実は1つの年に決めにくいのじゃ(くわしくはこのあとの「鎌倉幕府はいつできた?」で説明するぞい)。頼朝の統治は1180年ごろから少しずつ整えられ、1185年ごろには全国に力がおよび、以降約150年間、鎌倉は日本の政治の中心として君臨したのじゃ。
鎌倉幕府はいつできた?(1185年説と1192年説)
昔の教科書で「いい国(1192)つくろう鎌倉幕府」と習った人も多いじゃろう。頼朝が征夷大将軍に任命された1192年を、幕府のはじまりとしていたからなのじゃ。
今の教科書では、成立の年を1つに決めず、幕府の仕組みが少しずつ整っていったと考えるのが一般的じゃ。主な流れはこうなっているのじゃ。
| 1180年 | 頼朝が鎌倉に入り、東国の支配をはじめる。侍所を置く |
|---|---|
| 1183年 | 朝廷が頼朝の東国支配を認める(宣旨) |
| 1184年 | 公文所・問注所を開く |
| 1185年 | 守護・地頭を置く(この年に平氏が滅亡) |
| 1190年 | 右大将に任じられる |
| 1192年 | 征夷大将軍に任命される(幕府の基本の形が「完成」) |
1185年は、全国に守護と地頭を置く仕組みができた年で、幕府の全国支配のもとになったのじゃ。そのため「1185年ごろに成立」と説明する解説も増えているのじゃ。一方で1192年は、幕府の基本の形が「完成した」年と考えられているのじゃ。
「征夷大将軍になれば幕府ができる」という考え方は、江戸時代の後ろごろに生まれたもので、鎌倉時代にはなかったとされているのじゃよ。
だから、かまいこネットは「鎌倉観光を1185倍楽しむ」なのじゃ。幕府の成立を、今の考え方に合わせたというわけじゃな。

写真は永福寺の想像図。湘南工科大学提供。
【頼朝の栄華と衰退】
頼朝が建てた三大寺院は鶴岡八幡宮、永福寺、勝長寿院の3つ。現在は八幡宮を残すのみとなるのじゃが、永福寺は現在台座・池部分までの復元工事が進んでいるのじゃ。かつてはものすごく華やかな場所で、蹴鞠や和歌などの遊びも盛んにされていたようじゃ。この土地は今までずっと荒れ地だったので復元が楽しみじゃな。
頼朝は征夷大将軍になってから、わずか7年でこの世を去ってしまうのじゃ。(源頼朝の死因についてはいくつかの説があり、頼朝の亡くなる前後3年間の幕府の公式記録が抜けているのじゃが、稲村ケ崎での落馬が原因とする説が有力じゃ)
頼朝が亡くなった後、息子の頼家が二代目将軍となるのじゃが、鎌倉幕府の実権を握ろうとする北条氏と比企氏の争いに巻き込まれてしまい、伊豆の修善寺に幽閉されたのち、北条氏によって暗殺されてしまうのじゃ。
その後弟の源実朝が三代目将軍となるものの、実権は北条義時とその母政子に握られてしまったため、あまり政治にかかわることのないまま右大臣拝賀式の際に甥の公暁(兄頼家の子)に暗殺されてしまうのじゃ。
暗殺された場所は鶴岡八幡宮の大銀杏。公暁はこの木に隠れて飛び出し、実朝を暗殺したといわれるため、別名「隠れ銀杏」の名がつくのじゃ。
この大銀杏は2010年3月10日の早朝、強風によって倒れてしまったのじゃ。

このように頼朝直系の血は早々に途絶えてしまい、4代将軍以降は藤原家や宮家から名目上の将軍を立てるのじゃが、実際の権限は執権の北条家が行使するという二重体制のもとで続いていくのじゃ。
そして1230年ころに幕府は全盛期を迎え、鎌倉は政治、軍事、外交、文化などあらゆる面で日本の中心地となるのじゃ。頼朝はこの全盛期に立ち会えず、さぞ無念だったことじゃろうな。

新田義貞像
【鎌倉幕府の滅亡】
1333年(元弘3年)に後醍醐天皇より鎌倉討幕命令を受けた新田義貞による鎌倉攻めは天然の要害に苦戦し何度も鎌倉入りに失敗するのじゃが、激戦を繰り返したのちの5月21日深夜、稲村ケ崎から引き潮の海を渡って鎌倉に侵入し、翌日には鎌倉幕府は滅亡してしまうのじゃ。
その際に新田義貞が本陣を置いた場所が材木座の九品寺のあった場所で、のちに義貞が両軍の戦死者(5000人以上と言われる)を弔うために寺院を建立するのじゃ。

九品寺(くほんじ)
この戦いの最後に北条氏が集団自害した場所が東勝寺跡(腹切りやぐら)じゃ。
【その後の鎌倉】
その後、南北朝時代と室町時代の鎌倉では、天皇親政と幕府打倒に活躍した武士の対立が続いた末、足利尊氏が勝利して京都に室町幕府を開くのじゃ。
室町時代の鎌倉には東国を統治するための出張所として鎌倉府が置かれるのじゃが、その長である鎌倉公方(かまくらくぼう)には京都将軍家の血縁がある足利氏が就き、関東を治めたのじゃ。
江戸時代に入ると鎌倉は幕府の管轄地になるのじゃが、江戸中期以降は物見遊山の地として知られるようになり、数多くの観光客が訪れるようになったのじゃ。
鎌倉の名数と呼ばれる「鎌倉七福神」「鎌倉七口」「鎌倉十橋」「鎌倉十井」などは、当時の観光用キャンペーンとして作られたものじゃ。

昔の横須賀線(写真は電化後)
【鎌倉の復興】
その後、1889年の横須賀線の開通により、東京の出版社からも行き来が便利になったため、鎌倉文士と呼ばれる作家、美術家などの文化人が集まり住むようになり、大変なにぎわいを見せるのじゃ。
有名なところでは
芥川龍之介、川端康成、大佛次郎、横溝正史、近年では井上ひさし、なかにし礼、なだいなだなどが鎌倉を愛し、それぞれが集まっては日本文学に歴史を刻む作品を生み出していくのじゃ。
【今の鎌倉と世界遺産に向けて】
現在の鎌倉は中世の鎌倉とは大きく違っているのじゃが、古都保存法によって乱開発が規制されているのじゃ。国宝建築の円覚寺舎利殿を含めた文化財が多く残っており、再度の世界遺産登録に向けて街全体が動いているのじゃよ。


